化学・素材業界は、一般消費者の目に触れることの少ない「川上」の産業でありながら、半導体から航空機まであらゆる先端製品の性能を土台から支える。半導体材料で世界的な存在感を持つ信越化学工業と、炭素繊維で世界首位の東レ――両社とも「地味だが代替が効かない」素材を武器に世界を握っている。

シリコンウエハー信越化学工業
炭素繊維東レ

画像: シリコンウエハー(CC0) / 炭素繊維(パブリックドメイン)、Wikimedia Commons。いずれも両社の具体的な製品ではなく、扱う素材一般のイメージ。

企業の歴史: 肥料・カーバイド会社から半導体素材へ、人造絹糸会社から炭素繊維へ

信越化学工業は1926年9月、信濃電気の越寿三郎と日本窒素肥料(現チッソ)の野口遵が提携し、資本金500万円の信越窒素肥料株式会社として発足した。翌1927年に直江津工場が完成しカーバイド・石灰窒素の製造を開始、1940年に現社名「信越化学工業」に変更した。1957年に直江津工場で塩化ビニル(塩ビ)の生産を開始し、1970年には塩ビ生産の主力となる鹿島工場が操業を開始している。半導体シリコン事業は1960年代以降に育て、1974年には米国にPVC事業会社シンテックを設立して北米市場に進出するなど、化学メーカーとしては珍しく祖業(肥料・カーバイド)から遠く離れた半導体材料・塩ビの2本柱へと事業を大きく転換させてきた。

東レは1926年1月、三井物産の出資により資本金1,000万円で東洋レーヨン株式会社として設立され、化学繊維レーヨンの製造事業として発足した。滋賀県大津市に開設した滋賀事業場(現・滋賀事業場)が同社発祥の地である。1951年に米デュポン社からナイロンの製造技術を導入し、1958年には帝人と共同でポリエステル繊維「テトロン」の生産を開始するなど、戦後は合成繊維メーカーとして規模を拡大した。1971年には炭素繊維「トレカ」の生産を開始し、この炭素繊維事業が後にボーイング787向け供給(後述)へとつながる同社の看板事業に育っていく。社名は1970年に「東レ株式会社」に変更されている。

企業規模の比較(時系列): 直近5期の推移

両社とも決算期は3月期で揃っている。

決算期 信越化学工業 売上高 信越化学工業 営業利益 東レ 売上収益 東レ 営業利益
2022年3月期 2兆744億2,800万円(前期比+38.6%) 6,763億2,200万円(前期比+72.4%) 2兆2,285億円(前期比+19%) 1,005億6,500万円
2023年3月期 2兆8,088億円(前期比+35.4%、過去最高) 9,982億200万円(前期比+47.6%、過去最高) 2兆4,893億円 1,090億100万円
2024年3月期 2兆4,149億円(前期比-14%程度) 7,010億3,800万円(前期比-29.8%程度、塩ビ反動減) 2兆4,646億円(前期比-1%) 576億5,100万円(前期比-47.1%、炭素繊維で減損)
2025年3月期 2兆5,612億4,900万円(前期比+6.1%) 7,421億500万円(前期比+5.9%) 2兆5,632億円 1,274億5,300万円(前期比+121.1%)
2026年3月期 2兆5,739億6,900万円(前期比+0.5%) 6,352億400万円(前期比-14.4%) 2兆5,850億7,700万円(前期比+0.9%) 972億2,100万円(前期比-23.7%、事業利益ベースでは1,419億円・前期比-0.6%)

※本節の数値はいずれも各社決算短信・決算説明資料および日本経済新聞等の報道でクロスチェック済み。

指標 信越化学工業 東レ
経常利益/当期利益(2026年3月期) 経常利益7,082億8,100万円(前期比-13.7%)、純利益4,744億5,900万円(前期比-11.2%) 当期利益894億3,600万円(前期比+3.2%)、親会社帰属分795億2,100万円(前期比+2.1%)
連結従業員数 27,342人(前期比+68人) 46,294人(前期比-1,620人)

5期の推移を見ると、両社とも2022〜2023年3月期にかけて記録的な増収増益を達成した後、2024年3月期に大きく反動減している点が共通している。信越化学工業は米国での塩ビ市況悪化(住宅着工減少)、東レは風力発電向け炭素繊維複合材料での減損が、それぞれ2024年3月期の落ち込みの主因である。売上高規模は両社ともほぼ同水準(2兆5千億円台)で並ぶが、営業利益は信越化学工業が東レの6倍以上の水準を保っており、従業員一人あたりの収益性では信越化学工業が際立って高い。これは、信越化学工業が高付加価値な素材(半導体シリコン・塩ビ)に事業を集中させているのに対し、東レは繊維・機能化成品・炭素繊維複合材・環境エンジニアリングなど幅広い事業を持つ総合素材メーカーであるという、事業構造の違いを反映している。

主力製品の比較: 半導体材料・塩ビ vs 炭素繊維・水処理膜

半導体シリコンウエハー vs 炭素繊維: 両社の看板製品

信越化学工業は、塩化ビニル樹脂・半導体シリコン(シリコンウエハー)・先端品フォトマスクブランクス・フェロモン製剤など、複数の分野で世界シェア首位を握る素材メーカーである。中でも中核をなすのが半導体シリコン事業で、子会社の信越半導体を通じて手がけるシリコンウエハーは世界シェア推計30〜40%台とされ、業界首位級の地位にある。シリコンウエハーは、半導体製造装置(東京エレクトロン・SCREENホールディングス等、別記事参照)が加工する対象そのものであり、あらゆる半導体チップの物理的な土台となる、地味だが代替の効かない素材である。電子材料事業全体では2026年3月期に売上高1兆157億円・営業利益3,445億円を計上しており、AI関連向け販売が全体の2割を超えるまでに拡大している。

東レは炭素繊維で世界シェア首位のメーカーであり、日本の炭素繊維3社(東レ・帝人・三菱ケミカルグループ)を合わせると世界シェアのおよそ半分を占めるとされる。中でも象徴的なのが、ボーイング787型機の機体構造材を東レが独占供給している事実である。787では炭素繊維強化プラスチック(CFRP)などの複合材料の使用比率が機体重量の50%まで高まっており、同じ強度で比較すると鋼のおよそ4分の1の重さで済む炭素繊維の採用により、従来機と比べて燃費性能が約2割向上したとされる。炭素繊維は現在も米国・韓国・フランスなどでの増産投資が続いており、東レは中国・韓国勢の追い上げを受けながらも生産能力を拡大し、首位の座を維持する方針を掲げている。

塩化ビニル樹脂: 米シンテックが支える世界首位

信越化学工業のもう一つの看板事業が塩化ビニル樹脂(塩ビ)である。世界シェアは推計7%程度ながら単独では世界首位級とされ、米国子会社シンテックが北米シェア約2割・世界最大級の生産能力を握る中核会社となっている。シンテックは設立当初、全米の塩ビメーカー13位という小規模な存在だったが、増強を重ねて2024年末にはルイジアナ州プラケミンの新工場稼働により年産能力364万トンに到達した。営業利益率でアップル並みとも評される高収益事業であり、信越化学工業の高い利益率を支える柱となっている。

水処理膜・電池セパレータ: 東レの環境・次世代電池関連素材

東レのもう一つの柱が、海水淡水化等に使う水処理膜(RO膜)である。日本勢がRO膜世界市場の5割超を握るとされ、その中でも東レは世界シェア約28%で首位級の地位にある(2位は米デュポン系Hydranautics20%、3位は東洋紡7.6%)。東レはサウジアラビア・米国で組立工場を増設し、2026年3月期までの3年間で年間生産能力を3割高める計画を進めている。あわせて、リチウムイオン電池向けバッテリーセパレータフィルム「セティーラ」を展開し、電池の絶縁膜という地味ながら安全性に直結する部材でも世界大手電池メーカーとの取引を築いている。信越化学工業が半導体という「デジタル」領域の素材で存在感を持つのに対し、東レは水・エネルギーという「環境・インフラ」領域の素材でも強みを発揮しており、両社の素材ポートフォリオの広がり方に違いが見える。

技術戦略の違い

信越化学工業の技術戦略は、少数の高収益事業(半導体シリコン・塩ビ)に経営資源を集中させ、それぞれの分野で圧倒的な世界シェアと高い利益率を追求する「選択と集中」型である。同社は公式の中期経営計画を公表しない方針を取っており、この点は投資家から「成長戦略が見えにくい」と評されることもあるが、裏を返せば市況変動に応じて機動的に投資判断を行う経営スタイルとも言える。一方の東レは、繊維・機能化成品・炭素繊維複合材・水処理膜・電池材料・医療など幅広い事業ポートフォリオを持ち、各事業を有機的に連携させて新市場を開拓する「総合力」型の技術戦略を取っている。炭素繊維とレジン(樹脂)を組み合わせた複合材料技術や、繊維事業で培った高分子加工技術を水処理膜・電池セパレータに応用する技術展開力は、東レの総合素材メーカーとしての強みの表れである。

開発・製造拠点

信越化学工業は本社(東京都千代田区丸の内)のもと、祖業の地である新潟県上越市の直江津工場、群馬県安中市の磯部工場(シリコーン)、グループ会社信越石英の郡山工場(福島県、石英ガラス)など全国に生産拠点を構える。東レは本社(東京都中央区日本橋室町)のもと、発祥の地である滋賀事業場、炭素繊維「トレカ」の主力拠点である愛媛工場、複合的な製品を手がける岡崎工場(愛知県)などを主要拠点とする。判明する国内拠点を地図に示す(海外拠点は対象外)。

出典: 各社公式サイトの拠点紹介・工場紹介ページに掲載の拠点名をもとに、住所は地図情報サービス(マピオン・NAVITIME等)で個別に確認。座標はOpenStreetMap Nominatimによる町丁目単位のジオコーディング。

事業戦略・今後の展望: 信越化学の「機動的投資」、東レの「IGNITION 2028」

信越化学工業は、他の大手化学メーカーと異なり公式の中期経営計画を公表しない方針を続けているが、AI需要を追い風とする半導体シリコンウエハーへの投資は着実に進めている。2026年3月期の設備投資額は3,397億円に達しており、ユーザー側の在庫積み増しや半導体デバイスメーカーの増設計画を見据えた追加受注が相次いでいるとされ、中長期的にはAI需要拡大がウエハー需要を底上げすると見込んでいる。中期経営計画という形での目標開示こそないものの、市況の良い局面で機動的に投資を積み増す経営スタイルを貫いている。

東レは2026年3月、2026年度から2028年度までの3年間を対象とする中期経営課題「IGNITION 2028」を発表した。前中期計画「プロジェクトAP-G2025」の成果と課題を踏まえ、2028年度に売上収益3兆円・事業利益2,300億円(事業利益率8%)・ROIC約7%・ROE約8%という財務目標を掲げている。炭素繊維複合材料事業では、民間航空機需要の取り込み・製品ポートフォリオの拡充・高性能品種と中間基材の拡販・宇宙防衛分野での対応力強化・ラージトウ事業の構造改革を重点施策とし、炭素繊維事業を成長のけん引役と位置づけている。日本経済新聞も「東レが新中計、29年3月期に事業利益過去最高へ 炭素繊維がけん引」と報じており、炭素繊維事業の拡大が東レの中期的な収益改善のシナリオの中核に据えられていることがうかがえる。

両社の戦略スタイルの違いは、情報開示のあり方にも表れている。信越化学工業が中期経営計画を公表せず市況対応型の機動的投資を続けるのに対し、東レは3年ごとの中期経営課題で具体的な財務目標を開示し、それに向けた進捗を管理する伝統的な日本企業型の経営スタイルを取っている。素材という同じ川上産業にありながら、経営の見せ方にも対照的な個性が表れている。

参考リンク

#化学素材 #信越化学工業 #東レ #炭素繊維